by shigemk2

当面は技術的なことしか書かない

大卒の元ニートが明石でプログラマをやっていた頃の話 #ruraladvent

この記事は地方在住ITエンジニア(元・地方在住も可) Advent Calendar 2015 - Adventar 8日目の記事です。

東京在住のScalaエンジニア @shigemk2 です。今日で29歳になりました。 今日は、昔明石でプログラマをやっていた頃の話をします。

今は都内在住なので地方エンジニアの枠には当てはまりませんが、元・地方在住も可と書いてあったので、私が書いても大丈夫だろうと判断いたしました。 というわけで、4年前、西明石でエンジニアをしていた話を書きます。

前もって言っておきますが、「地方エンジニアだと給料が下がるのか」とか「エンジニア業 都会と地方の比較」とかはやりません。元ニートの与太話です。明石でやったことといえば、以下の3つです。

  • 大卒のプータローが創業1年以内、社員3人の会社にジョインしたこと
  • そこで住み込みで仕事をしていたこと
  • エンジニアリングだけじゃなくて、いろいろな仕事をしたこと

このあたりを中心に書いていきます。

明石での1年間

d.hatena.ne.jp

大学卒業後プータローとなり大都会岡山で親のスネをかじりながら月収3万円生活をしていた僕は、会社を経営していた友人に誘われるままにホイホイとエンジニアになりました。

経営者の友人と僕は大学の同期で、友人からは内定を辞退してオンライン英会話サービスの会社を興すことを大学卒業前に聞いていましたが、当時はそこで働くことは全く考えていませんでした。

僕も内定はもらっていたのですが、大学卒業前は誰とも連絡を取らずに読書とゲームに明け暮れるニートぐらしをしており、諸事情により大学卒業後無職になり途方にくれていました。そんなある日、友人が「お前プログラミングやってみなよ」と言ってきたので、他にすることもないので仕方なくはじめたのが僕のプログラマ人生の始まりです。その頃はRubyやC++を独学で勉強していました。WindowsとMeadowで。Emacsを使おうと思ったのは、id:tomoya さんのweb db pressの特集を読んでやろうと思ったからです。この頃の僕は、ただ入門書をひたすら写経するだけで、Rubyで何が出来るかとか、今後どうすべきかとか、ほとんど何も考えずに生活をしていました。

それから1年くらい塾講師やら居酒屋のキッチンスタッフやらで糊口をしのいでいたのですが、ある日突然友人から電話がかかってきて、「ウチで働かない?」と言われました。1年くらい独学でプログラミングの勉強をしていましたが、このままの生活で就職できるのかものすごく不安だったので、わりと二つ返事で会社に就職することにしました。

就職した日に、CTOの id:tomoya と話をすることになりました。どんな言語を知っているかなど、初歩的な技術の質問をいくつかしたあと、「なぜウチで働こうとと思ったのか」と聞かれました。それに対し僕は、「ここでがんばらなければもう後が無いからがんばる」と言ったそうです。僕自身はそう言ったことは覚えていませんが、聞いた本人が覚えていたそうで、確かに当時の心境としてはここが分水嶺というか、背水の陣というか、ここでやらなきゃ一生フリーターと無職をうろうろするだけの暗い一生になるであろうと思っていました。当時会社にいた人たちが僕のことをどう思っていたかは知りませんが、自分なりにそれなりの覚悟をして就職に臨んでいたことだけは覚えています。

会社が「オンライン英会話サービス」をやっていたので、フィリピンには何十人か講師がいましたが、僕が入社する時点で日本のオフィスの社員は創業者以外誰もいないという状態でした。僕が入社する前のオフィスは友人のマンションのリビングでしたが、僕ともう一人のエンジニアが入社するにあたって、オフィスを移転しました。

住み込みで仕事をしていたこと

僕が入社した時点で社員数が創業者を含めて合わせて5人で、西明石の2階建てコーポを借りてそこをオフィスとしていました。1階のダイニングがオフィス、2階の個室で生活。多くの都会人が満員電車で消耗するなか、当時の僕の通勤時間はドアドアで15秒でした。最寄り駅は明石駅/西明石駅なのですが、住所はギリギリ神戸市です。

オフィスの写真

部屋の写真

部屋の写真

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生ハムはともかく、あずにゃんは僕の私物です。

今でこそ仕事でもプライベートでもMacを使っていますが、当時は本当に何も知らなくて、当時のCTOに言われるままにホイホイと持っていたアスワンからWindows Vistaを消してUbuntuを入れて仕事をしていました。

acer Aspire One 722シリーズ ブルー AO722-N52C/B

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ネットワークはちゃんとしてるのにsshログインが全然できなくて、何が起きたんだと周りの人と四苦八苦していたら、マシンスペックが貧弱すぎてssh鍵の復号化に時間がかかりすぎていたという謎現象まで起きたのは良い思い出です。

オフィスといっても必ずそこで仕事をしなければならないというわけでもなく、仕事をする場所は人によってまちまちでした。僕はといえば、自分の部屋だったり、リビングだったり、満喫だったり、いろいろな場所で仕事をしていました。特によく通っていた満喫は有線LANが使える満喫だったので、そこで僕は漫画も読まずに粛々と仕事をしていたのを覚えています。

いろいろな仕事をしたこと

当時の僕は、新入社員でノースキル、そして会社が人手不足ということもあり、プログラミングはもちろんのこと、カスタマーサポート、現地講師の採用、ビラ配りまでやりました(ビラ配りは本当に苦痛でしたが)

昼過ぎに起きてプログラミングしながら夜中までメールを返信し、近くのラーメン屋でラーメンを食べたら朝までプログラミングして、朝になったらまたメールを返して落ち着いたら寝る、というなんだかよくわからない生活をしており、当時の僕はプライベートそっちのけで生活を仕事に全振りしていました。休日という概念も存在しなかったので、自分も、他の人も、土日祝など関係なく仕事していました。

普通に考えたら絶対体を壊すだろうと思う暮らしをしていても普通に生きていたのはおよそ定時という概念がなく普通に寝て普通に起きていたのである程度の睡眠時間が確保出来ていたことと、メンバー全員がよく知っているひとたちだったので対人関係でストレスがなかったこと、それほどタイトなスケジューリングじゃなかったことなどが挙げられると思います。これが東京で、通勤時間二時間で、社員社長も知らない人/怖い人ばかりだと、絶対心身ともにおかしくなっていると思います。どれか一つ欠けててもこんな無茶苦茶な生活はできないと思っています。

というわけで、皆さんが期待している「まだ東京で消耗してるの?」と言った感じの生活はしておりません。別に西明石だからといって毎日明石焼きを食べているわけでもなく、海産物も有名な気はしますが基本的な食事はうどん、ラーメン、パスタ、ファミレスの繰り返しで生きてきました。

当時は本当にノースキルかつ無知だったので、田舎のQOLとか給料とか、田舎で仕事することの意味とか全然考えていなかったです。

達人プログラマーを読んでからは定期的に勉強会に行こうと思ったのですが、近場に勉強会がないのでだいたい神戸とか大阪とか京都とかに出張ることが多かったです。車は持っていなかったので移動手段はだいたい電車で、京都のEmacs勉強会に行くときはだいたい2時間くらいかかりました。

あと、RubyKaigiとかLL系とかデブサミなどのでかいイベントはだいたい東京なので、新幹線やらバスやら使って東京に行くのは結構めんどかったです。

そして東京へ

就職してから1年位したあとに、会社の業績もそこそこに良くなってきたので、明石から東京へオフィスを移転することになりました。住めば都といいますか、明石での生活はそこそこに快適なものだったので、住み慣れた土地を離れて大都会東京へ引っ越すってなったときに、今の給料で生活出来るんだろうか?東京にうまく馴染めるんだろうか?という不安はありましたが、だからといって特に反対することもなく普通に明石をあとにしました。

東京での生活はそれなりにしんどいものもありましたが、勉強会の数も半端なかったですし、当時はやっぱり通勤時間がドアドアで5分くらいのところで生活していましたし、コアタイムつきのフレックスタイム制で仕事をしていたので、さほど仕事のストレスもなく生活していました。でもまあ諸般の事情により、東京に来てから1年したあとに次の会社へ転職することになったのです。

今は

退職してまた就職してやっぱりEmacsでScalaを書き続けていますが、どうなんでしょう。今後のことはわかりません。

あの頃は本当に何も知らなくて、ここでしくじるともう後がないと本気で思っていたので、時間も曜日も気にせずにひたすらにがむしゃらに仕事をしていました。自分の身の回りがすべてだと思っていたので、他の会社とくらべてウチの会社はどうとか、東京とくらべて地方でエンジニアをやるのはどうなのかとか、全く考えないまま仕事をしていました。考える考えない以前に、そもそもそういう認識がなかったので考えることすらなかったです。

何回か転職してみて、他の会社と比べた時に、当時の生活はかなり狂っていましたがのんびりしつつもエキサイティングで、もうああいう会社でああいう仕事はできないんだろうとは思います。

今振り返ってみると、技術的なところでもっと人とコミュニケーションを取るべきだったとか、GitHubとかブログとかもっと活用すべきだったとか、いろいろな後悔はありますが、それは今からやっていけばいいだけの話なので、これからもっともっと頑張っていこうと思います。

次は enk_enk さんです。